29.社会学について暴論す(2011/02/01)

 某Tさんから、人文科学についての話を頂いたのでその回答として。
 どんな話がわからんとわからん話ではあると思いますが、ひとまず、「ツヅキさん社会学について暴論す」だと思ってくだされば。また、自分の未熟ゆえ、大変乱暴な話しになってしまっております。世の社会学に関わる皆様、本当に申し訳ありません。
 
 まず“人文”という括りから話したい所なんですが、自分の技量と知識じゃまとめられる気がしないので、俺の周囲(社会学)という仮定でいきます。
 まず、社会学の研究は全てが“主観”において形成されているわけではなく、定量調査の手法、ペーパーアンケートなどが存在します。そこに研究者の主観が介在しないよう、厳密にアンケート手法については規定がされています。ですが、定量的な手法では調査ができない場面が社会には多々存在しています。例えば、自分は今地域活性化の手法についての研究を進めていますが、各自治体やNPOにアンケート用紙送っても嘘をつかれる可能性もあります。だからといって、その現場に365日貼り付くのは不可能です。
 そうなった場合、現場の人間と親密な関係を築いて、実際に聴くという、フィールドワークなどの手法を取らなくてはいけない。こうなってくると、研究者の人格が介入してくることは不可避であり、これにもまた規定はありますが、正直倫理的といってもいい基準です(少なくとも自分はそう思ってます)。ただ、そうして構築された研究結果ひとつひとつに信頼はおけないかもしれませんが、そこからひとつひとつを、仰るようにモザイクのように集めていくことで社会や人間の行動についての“類型”は導きだされます。更に、それを基にして、或いは批判して、また新たな類型を導き出していくことが、社会学の手法です。
 また、ウェーバーやデュルケムなど、様々な視点から古典社会学を形成されてきた方々はいますし、そこからギデンズやメルッチのように広く学際的に理論化を進めてきた方もいらっしゃいます。ですが、彼らと我々が生きた時代や社会は違うわけで、自分の専門に対して比較考察をする際に、焦点を合わせていくところが別なのであれば、必ずしもその足跡を全て踏襲する必要はないと考えています。対象とする事例が違うのであれば、そこに適用されうる理論もまた違います。
 ただ、だからといって1〜3年で遊んでていいというわけではありません。重ねて言いますが、我々が研究対象とするのは社会や人間の行動です。そこには多々様々なモノゴトが存在し、4年になってから慌てて論文を始めても、十分に類型化と記述ができるわけがありません。そのためには、なるべく早くから自己の専攻のみならず、他の学問についても学際的に知的欲求を広めるべきであり、また机上の空論とならないためには自らの身体で現実を感じ、視野を広める必要があります。それを端的に表せば、「日常に問題意識を持つ」ということになります。
 
 「大学生はもっと阿呆になれ」と言ったのは、再三自分がTwitterにおいて言っている「なんかようわからんキーワード」に感化され過ぎ、やれ“キャリア”だの“学歴”だのと極々一部の行動にばかり意識を動かし、学問の本懐と楽しさを忘れられているような学生さんがあんまりにも多いように思えたので、そんな世の中曰くの賢さからは離れたがいいんでないの、という呟きでありました。
 某Tさん。多分に誤解招いただろうこと、そのような具合で毎度繰り返してしまっていること、申し訳ありません。
 ともあれ、社会学にも、もしかしたら理系からは体系化されてるようには見えないかもしれませんが、我々が足場とする理論、研究者たちの足跡は確かに存在します。若干、捻くれていたり、哲学的すぎたり、主義過ぎたりするようにも見えるかもしれませんが、それは混迷や騒乱の社会を対象にしたゆえの結果であると、そう思って頂ければ幸いです。
 
(※で、ごめんなさい。ギデンズさんは御存命です。文章上、死んだような扱いしてすんません…orz)

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■関連図書
アンソニーギデンズ『社会学』而立書房
アルベルトメルッチ『プレイング・セルフ』ハーベスト社
佐藤郁哉『フィールドワーク―書を持って街へ出よう』 新曜社