8."都市の拙速"考

 最近の自分個人の考えなのですが、"現状のままの都市には先がないのではないか"と考えています。
 現在の都市、この場合は東京を対象として考えていますが、再開発に重ねる再開発を重ね、新しいモノゴトをどんどん輩出し、資金も人材もかなりの数で良い形で揃っているでしょう。東京のパワーは凄まじいものであり、現在の地方では直接的には太刀打ちできないでしょう。世界的に見ても、東京の地位というのは未だに高いものです。しかしながら、果たしてそれが本当に正しいのだろうか、という疑問からこの考えは発しています。
 江戸の頃(更に遡れば京都もそうでしょうが)より、都市とは流行の発信源であり、経済の中心地でした。片や地方は、都市の周囲はまだしも、その他においてはほぼ単純な生活地域であり、農耕漁業によって生活の糧を得る土地として、割合地味な場所であったと思います。その構図は今も変わっていません。ですが、日本史の上でここまで"街"が変わったことがあったでしょうか。戦後日本における経済復興と、脱戦後の高度経済成長期を経て、東京という街は大きな進歩を遂げました。そしてまた、それに留まらずして次々と新しい物事を生みだし続けています。そういった新陳代謝の早さという点については一定の評価を行ってはいるのですが、しかし、余りに早い変化、そして余りに多い創造は、街自体の土地的リソースの限界を超え、社会的文化的なキャパシティを超えることはないのでしょうか。
 先だってあった中央郵便局や歌舞伎座の取り壊しや、再評価されずに残され何の保全もかけられずに放置される地域など、その土地の伝統的なカタチに関しての問題は現在数多くあります。また、過大な文化の創造、例えとして音楽を上げるのであれば、"古いからわからない"や"伝統的フォーマット過ぎる"としてその内実を良く理解されずに放置されていっている演歌や民謡など、その土地を歌い伝える楽曲は埋もれていくままになるのではないでしょうか。過言なきらいはありますが、新しい物事は、歴史の上に初めて成り立つものであり、それら無くしては現在の世のことごとくは無かったと言っても良いでしょう。勿論のこと、新しいものを生み出すことが悪いというわけではないのです。しかし、そういった伝統的物事に対しての敬意や理解を行わないことは、果たして正しいと言えるのでしょうか。
 これまで、地方において行われてきた伝統を反故にして進められた再開発や街づくりに関わる活動のほとんどは、現在において何らかの問題を孕み、或いは失敗しています。地方商店街の自己努力の機会を与えず、またはそういった知識についての見識を与えずに行われた郊外型大型店の進出は、無秩序な市街地拡大を誘発し、ドーナツ化現象を引き起こし、最近ではその結果として衰退した街の経済力から、当の大型店もシャッターを下ろす状態が増えているということがあります。
 都市においても、これと同じか或いは更に規模が大きく、創造が余りにも大きく広いために、メリットに多くが集中していくことで、"もともとの良さ"が、特に都市ではその進行が見えぬまま、失われているのではないか、という疑念があります。こういった事態が進行し続けた場合、今日生みだされた良いものが、5年後には既に旧態然としたものとみなされ、失われる可能性はあります。こうした余りにも早く大きな新陳代謝の結果、現れるのは無秩序なのではないかと考えています。「それぞれがオンリーワン」なのではなく、何が良いものかがわからない、何を頼ればいいのかがわからないという不明の暗さ。余りに過度な進行があれば、それは対立という形で現れてくるでしょう。今後、グローバル化がさらに進んでくるでしょうし、これまでのような飽食の時代は既に終わりの兆候を見せています。こうした"外部環境の変化"の中において、今の都市は果たして適応力や抵抗力を持っているのでしょうか。
 "拙速"という言葉があります。昔を思い出せなくなるほど先を急ぐことは、人にとっては良いことがあるかもしれませんが、街という多数の人を内包するひとつの社会にとっては、致命的となりうることがあるでしょう。この速さの中で、我々は今一度、我々が今何をしているのか、その足元には何があったのかを再検討し、よく考える必要があるのではないかと思います。それ無くしては、幾ら創造を行ったとしても、それは良いものとして残ることはない。そう思います。


▼後記
 結構思い付きかつ後付けで調べたところもありまして、微妙なところが散見されますが、青二才が書いた文章としてその点についてはご容赦ください。指摘、意見などにつきましてはご随意に。ただ、実際のところ地方の構造に問題があって、都市構造に問題が無いわけが無い、ということは真面目に考えております。そもそも、「これまでの大量消費社会からクリエイティブな方面に社会が移りつつあるとはいえ、"大量"の2文字がただクリエイティブに移っただけなのではないか(大量生産(創造?)社会)」、でしたり、「街とその土地に関わる人の構造に関わる新しい議論について一般社会がどれほど理解しているのか」などの疑問が下地にありまして。何事にも連環があると叩きこまれて育った社会学生の良きも悪きもなクセではあるのですが。
 ともあれ、こういった(と言っては齟齬誤解あるかとは思いますが)、都市構造に関しての問題意識を持ち、それに対しての改善などを検討されている方は既に多数いらっしゃるかと思います。そういった方々と今後お話させて頂くことで、もっとまともな形でこの考察については詰めていきたいと考えております。その際にはなにとぞよろしくお願いいたします。